出版物>>CAPEDS〜その門出に
挨拶
モハメド オマル アブディン
みなさま、こんにちは。スーダン障害者教育支援の会の代表を務めております、東京外国語大学修士1年、モハメド・オマル・アブディンと申します。
私が、母国スーダンを離れて、早9年が経とうとしています。人生の3分の1を過ごした日本で、すばらしい仲間たちとこの会を立ち上げられたことを、私は心よりうれしく感じています。
そして、今日ここに私たちスーダン障害者教育支援の会最初の出版物『CAPEDS、その門出に』を発行する運びとなりました。
最初の出版物ということで、何を載せるか、どのように私たちの会を伝えればよいのか、メンバーの間でたいへん迷いました。そして、やはり、私たちがなぜこの会をつくることにしたのか、私たちの原点を、立ち上げに関わったメンバーの個人の体験や思いを、ありのまま伝えることが、私たちらしい最良の方法だという結論に至りました。
会を立ち上げるに当たって、2年という長い時間がかかってしまったことを反省しつつも、同時に、不安と迷いの中で、数々の決断を下して辿ったプロセスが、私たちの今後の原動力となることを確信するものであります。
これまでに私たちは、あくまで個人的な活動として、ハルツーム特殊教育省への点字板の寄付などといった、散発的な支援活動を行ってきました。しかしこれだけでは、やはり効果的な支援を行うことが大変難しいことが判ってきました。
団体として、会を立ち上げるにあたって、メンバー同士でさまざまな議論をしてきました。意見の対立から生じる不和の危険もありました。しかし、意見が違っても、私たちが目指すゴールは同じだということ、メンバーの誰もがしっかりこのことをわかっていました。多くの議論を重ねてきたおかげで、私たちは、会の設立を決定し、今年の3月に任意団体としての会を立ち上げました。
私たちが目指すのは、スーダンにおける、障害者の社会の完全な参加と平等の実現であります。
ダルフールの人道危機に象徴されるように、紛争など、多くの問題を抱えるスーダンで、なぜ障害者教育という分野を選んだかという疑問はきっとわいてくるでしょう。それよりも大切で緊急性の高いものがあるはずだという指摘を何度もいただきました。
しかし、私たちは、国際社会から、光を当てられることの少ない社会の弱者である障害者の問題だからこそ、当事者として引き受ける義務があるように感じています。人間の安全保障の観点からも、スーダンのように社会福祉の充実していない国では、やはり社会の弱者といわれる人々が、いかに社会に参加するかが重要になるのです。昨年の国連総会で採択された、障害者の権利条約は、私たちに勇気を与え、会の設立への一歩を後押しするものでした。
障害者の完全な社会参加と平等という目標を、私たちは当事者として引き受けます。私たちは、教育こそが、障害者に力を与え、未来を実現する原動力を生み出すと信じています。そして、私たちは、究極の目標に向けて、多くの方々と手を携え、進んでいく決意を、ここに新たにしました。こうして、私たちの活動を知っていただくため、また、私たちの決意を表すための冊子が完成したことに、私は感動を禁じえません。この冊子の作成に当たって、中心的に動いてくださった、我が会の会員、福地さん、伊元さん、池田さんに感謝の気持ちを表したいと思います。
また、この冊子の作成をご助言くださった、アフリカ日本協議会の斉藤様に、心からのお礼の言葉を申し上げます。そして、事務所を提供してくださった理事の大森様に厚く御礼申し上げます。
まさに、みなさまのご指導、ご助言なしには、私たちの会は動き出さなかったといっても、過言ではないでしょう。
今夏私たちは、NPO法人格を申請することができました。スーダン障害者教育支援の会という会はできあがりました。生まれたばかりのこの会を、どう育て、いかに効果的な支援活動を行うのか、今後の私たちの課題だと認識しております。今後ともども、みなさまのご指導、ご助言を賜ることを切に願うものであります。
私たちに課せられた責任の重さと高鳴る期待を胸に、新たな一歩を踏み出したいと思います。
2007年8月東京にて
スーダンの概況
1.スーダンとは
スーダンは、北アフリカに位置するアフリカ最大の国です。1956年に独立するまで、イギリス・エジプト共同統治の名の下にイギリスの植民地でした。スーダンの面積はおよそ日本の6.6倍にあたる250万平方キロあります。エジプト、ケニア、ウガンダなど10カ国と国境を接し、北東部は狭い範囲で紅海(red sea)に面しています。
スーダンの人口は約4千万人で、国民の40%はアラブ系、31%はアフリカ系で、その他200以上の民族が存在します。主要な宗教は、北部ではイスラム教、南部では伝統的なアミニズムとキリスト教が混在しています。
スーダンの気候は、北部が乾燥した砂漠気候、中部がサバナ気候、南部は高温多湿な熱帯雨林と、変化に富んでいます。通貨はスーダン・ポンドで、1スーダンポンドは約45円です。一人当たりの国民総所得は、US 640ドルです。(2005年)
主要都市は、首都ハルツーム、第2の都市ワドマダニー、港湾都市ポールトスダンなどがあります。首都のハルツームでは、白ナイル川と青ナイル川が交差しています。1本となったナイル川がサハラ砂漠へと続くこの地形は、ぞうの鼻を連想させることから、ハルツーム(アラビア語でぞうの鼻)という地名が生まれました。また、あの有名なサハラ砂漠の「サハラ」は、アラビア語で砂漠を意味し、サハラ砂漠はまさに砂漠の中の砂漠なのです。
スーダンでは、変化に富んだ気候、そしてナイルから齎される水資源により、多種多様な作物が栽培されています。現に、農業はスーダンの主な産業となっています。また、石油や金、鉄鋼などの天然資源も豊富です。さらに、エジプト文明の影響を受けたピラミッドやヌビア王国のパトラの神殿跡など、観光資源にも恵まれていると言えます。
しかし、1956年の独立後、スーダンは数々の内戦を経験し、2度に渡ってクーデターが起こるなど、政治情勢は不安定です。2005年に包括和平合意がなされた南部のアフリカ系武装組織との闘争では、20年以上にわたる内戦で150万人以上の犠牲が出ました。また、近年は西部のダルフール地方において、アフリカ系住民とアラブ系民兵の衝突で、重大な人道危機が発生しています。このような政治情勢に加え、1996年から2001年までの国連対スーダン経済制裁の影響によって、豊富な資源があるにも関わらず、スーダン政府の財政は逼迫しています。
2. スーダンの障害者
国連の統計によると、スーダンの障害者は200万人以上と見積もられています。しかし、正確な調査が行われていないのが現状だと言えるでしょう。1993年に国勢調査が行われ、スーダンの障害者数は30万人と発表されましたが、内戦下にあった南部10州が調査の対象外であったこと、また調査項目も徹底していなかったことなどを考えると、実際の障害者数は、統計よりも相当多いと推測されます。
しかし、長年の内戦により、政府は教育、特に障害児教育には十分な予算を割いてきませんでした。視覚障害者の教育を見ると、スーダンの盲学校は首都のハルツームに1校あるのみです。教育相は、インクルーシブ教育の理念の下に、障害児を通常の学校に通わせる方針を採っていますが、実際は、適切な支援のないインテグレーション教育になっています。また、社会の障害者に対する理解の不足から、通常の学校の入学を断られ、教育を受けられない障害児は少なくありません。
首都のハルツーム州では、州内に7校の中核支援学校を設置し、近隣の視覚障害児に、3年間の点字教育を行う取り組みを始めています。期間終了後、子供たちは地元の学校に編入しますが、その後彼らが点字を活用するための環境や資源は整えられていないため、十分な効果を挙げているとは言えません。したがって、教育を受けられる視覚障害児は、家族や友人の助けを得て、本を読んでもらったり、カセットに録音するなどの方法をとって学んでいます。
実際に点字を使用する視覚障害者は限られており、特別枠で大学に入学できても、点字という文字を持たないことにより、理系分野で学ぶ視覚障害者は皆無です。また、大学を卒業しても、就労先がほとんどないといった問題もあるため、障害者の社会参加の実現には、教育・就労の面において、早急な支援が求められています。
私が歩んだ道
ヒシャム エルサー
みなさん、はじめまして。現在岐阜大学に留学中の、ヒシャム・エルサーと申します。私は、1976年にスーダン北部にあるナイル河岸の小さな村で生まれました。18歳の若い母親が生む初めての子供、どれほど待ち遠しかったことでしょう。みんなが元気な子供が生まれてくることを楽しみにしていました。しかし、生まれてきたのは全盲の私、家族のみんなが衝撃を受けたようです。
村の社会では、視覚障害を持つ子供は何もできず、将来もなく、村での生活は不可能だと考えられていました。村の人たちは、私や母を心配し、哀れみの視線を向けました。「これからどうやって育てるのだろう」、「かわいそうね」などと、哀れみの言葉が投げかけられたそうです。根拠のないいい加減な助言を母にする人もいました。しかし、母はみんなと違って、私の誕生を心から喜び、母親としての愛情を十分に注いでくださいました。
そして、「絶対立派な人間に育ててみせる」と心に誓い、愛情と厳しさを持って育ててくださいました。小さい時から、負けず、あきらめず、頑張り、やれば何でもできるということを、母は私に教えてくださいました。「私はいつまでもそばについているわけではありませんよ。だから、自分のことは自分でやりなさい。できないことはやってもらうのではなく、次に自分でできるように教えてもらいなさい」、といつも母が言っていた言葉を今でも覚えています。母のおかげで、私は盲学校に入学するまでには、自立し積極的に学ぶための力と自信を持つことができました。そんな母に対して、私は本当に心から感謝しています。
そして7歳になった時、私は盲学校に行くことになりました。スーダンには、首都のハルツームにたった1校しか盲学校はありません。当時、ハルツームまでの道は舗装されておらず、バスで7時間ほどかかりました。7歳の私にとっては、首都に行くのは海外へ行くのと同じくらい遠くに感じられました。今まで馴染んできた村や遊び友達、家族と離れ、まったく違った環境で突然たった一人ぼっちで暮らすなんて、7歳の私にはどんなにつらいことであったか想像いただけると思います。その上、スーダンの学校は5ヶ月ごとの2学期制のため、帰省できるのは半年に一度でした。盲学校から半年ぶりに帰郷した折に、村の人々がほぼ全員で迎えに来てくれて非常に嬉しかったことを、今でも覚えています。私が生まれた時の反応とは全く変わっていたことを感じ、母もそう思ったことでしょう。
スーダンの盲学校は、小学校6年、中学校3年の9年制で、高等部はありません。盲学校で過ごした9年間は、とても楽しい日々でした。色々なことを先生方や先輩たちに教えていただき、充実した日々を送っていました。人生で、もっとも貴重な時期でした。
盲学校卒業後、私は地元の普通高校に進学し、さらに新しい世界に飛び込むことになりました。今までの盲学校の環境と違い、周囲はみな正眼者で、視覚障害者は私だけでした。また、この学校では初めてのケースだったので、先生方や生徒たちは私との関わり方で悩んだと思います。しかし、私は盲学校で身につけた経験を生かし、自分から積極的にクラスメイトに声をかけたり、他のクラスでも友達を作り、たくさんの友人を作ることができました。しかし当然のことながら、学校には点字の教科書など、視覚障害者が学ぶための環境はまったく整っていませんでした。しかし、友人や先生方はとても粘り強く、教科書をテープに録音し、本を読み上げてくださいました。また、私は自分のノートを点字で作るなどして、勉強についていけるようになりました。さらに、学校の行事や生徒会活動にも積極的に参加しました。たった3年間でしたが、非常に楽しく過ごせ、また、新しい経験を得ることができ、普通の社会に出るために備えることができました。
その後のハルツーム大学法学部への進学は、私にとって大きな節目でした。大学の生活もまた、高校時代の生活とは大きく変わっていました。様々な学部があり、また様々な活動が行われていました。それは私の視野を広げる世界でした。そこでも、私は高校での経験を生かして、すぐにたくさんの友達を作り、同じくテープや点字のノートを作成し勉強しました。
当時、ハルツーム大学の視覚障害学生の在籍者数は、約60人に達していました。しかし、学部を問わず、視覚障害者への特別な配慮は不十分でしたし、先生方からの十分な理解や協力も得られていませんでした。そのような状況で、私は次々と授業や試験を受ける上で困難にぶつかりました。これがきっかけとなり、ハルツーム大学で視覚障害者の生徒会を作ることになりました。その会の主な目的は、視覚障害者の存在を知らせるとともに、視覚障害者に関する理解を高め、視覚障害者の学生が勉強しやすいような環境を作ることでした。視覚障害者の会ができてから二年後、大学での生活がかなり変わってきました。寄宿舎に入居するにしても、各学部で特別な配慮が行われるようになりました。しかし、未だに多くの課題が残っています。
その後、私は大学を卒業し、すぐに法務省の実習生として選ばれました。とてもよかったと思いましたが、それなりの問題にまた直面しました。大学への通学は、バスを降りてすぐに大学へ行く道が目の前にありましたが、法務省は、バス停から30分ほど歩かなければなりませんでした。しかも、歩道も音声信号もないハルツームの町中は本当に危険でした。また法務省の中では実習生だったので、いろんな事務所に決まった時間に回らなければならず、とても厳しかったです。
そして、日本への留学の話を、すでに日本で勉強しているアブディンやバシルさんから聞き、とても興味をそそられ、母国で学べなかったことを日本へ行けば学べるのではないかと考え、日本へ行くことを決意しました。日本に来てから、もちろん言葉、食べ物、宗教や習慣などの違いがあり大変でしたが、時間とともに乗り越えました。そしてやさしい日本人ばかりに囲まれ、彼らのおかげで色々なことを学ぶことができました。私は岐阜盲学校で3年間、針灸・按摩指圧を勉強して、現在、岐阜大学教育学部で障害児教育を勉強しています。先に触れたように、スーダンには盲学校が一つしかないため、多くの視覚障害者は教育を受ける機会を与えられていません。そのため、私の研究の主な目的は、日本の盲学校の制度を学んだ上で、盲学校のセンター的な機能と役割に注目して、アメリカの制度と比較することにより、スーダンにおける視覚障害者の最適な教育のモデルを創造することにあります。
私の夢はすべての視覚障害者が教育を受けること、最適な仕事を身につけ、みんなと同じ生活をできるようにすることです。その実現のために、この春、私は大きな一歩を踏み出しました。仲間と共に、スーダン障害者教育支援の会を立ち上げたのです。今後この会の活動を通して、まずは祖国スーダンで、夢への実現に向けて、更なる歩みを進めたいと思います。
今までの人生
モハメド バシール
はじめまして。私はモハメド・バシルと申します。31歳の男性です。
私はスーダンの首都・ハルツームの南部にあるアルジャジーラ州で生まれ育ちました。アルジャジーラ州は、農業で最も有名なところです。私が生まれた30年程前までは、若い人も農業を離れないようにと、教育を受けられない状態にありました。特に、基礎教育の「小学校レベル」を受けたとしても、その後進学する人は非常に少数でした。農業は市民にとって欠かせない仕事であり、また、スーダン自体その地域の収穫作物に完全に頼っていたため、人々は農業から離れられない状態でした。しかし、他の職業と同様に、この主要な産業である農業であっても、それに従事する障害者はほとんどいません。
障害者に関して言えば、社会全体で障害者に対しての理解が不十分なため、社会に出て活躍する障害者がほとんど見られないのが現状です。ほとんどの障害者は教育を受けられず、もちろん仕事もないため、自ら運動しようとしていません。率直に言えば、障害者全体が大変な状況におかれています。特に、障害を持っている女性たちは、男性障害者と比べても教育の機会を与えられておらず、非常に厳しい状況におかれています。
私は、11歳までは見えていたので、最初は地域の小学校に入りました。しかし、小学校4年生の終わり頃、病気が原因で、私の視力は3、4ヶ月で完全に失われてしまいました。病院に通い始め、眼の手術も2回受けさせられ、学校も行けないまま1年が過ぎてしまいました。その後、地域の学校で勉強を続けるには受けいれられにくい状況にあったため、私の両親は非常に悩まされました。
スーダンでは、基本的に障害者は一般の学校では受け入れられないので、イスラーム教の学校「宗教学校」に通わされます。しかし幸運にも、私には運命の出会いがありました。知り合いから盲学校を紹介していただいたのです。それが、私の人生の第1の転換期でした。私は盲学校に入り、最初の3か月で点字と歩行訓練などを習いました。そして、中学部を卒業するまで、盲学校に行くことができました。スーダンには高等部の盲学校がないため、盲学校の卒業生が全員通常の学校に通わなければなりません。卒業後、私は地元に戻り、地域の高校に入りました。私は、カセットテープを使って勉強することが苦手なため、点字を使っていました。しかし、高校と大学の勉強量は膨大なため、どうしても必要な部分だけ点字でメモを取り、ほとんどの教材は、家族や友達に読んでもらい勉強してきました。そのような環境は、視覚障害者にとって非常に困難な状況のため、勉強を続けられずに途中で止める人も少なくありません。
私は、高校卒業後ハルツーム大学の法学部へ進学しました。そして2000年、国際視覚障害者援護協会のプログラムで日本にやってきました。それは、2番目の人生の転換期でした。日本では、視覚障害があること以前に、最初は日本語がまったく分からなかったため、コミュニケーションをとることができませんでした。最初は、東京で日本語の授業や歩行訓練を2、3か月受けました。その後、日常的な日本語も分からないまま、京都府立盲学校に入学しました。授業では専門用語が多く用いられていたので、理解することが大変でした。少なくとも1学期が終わるまでは、私は自分がお客様であるかのように感じていました。しかしその後、私は4年間かけて按摩マッサージ鍼灸を勉強し、免許を取得することができました。私にとって、これは決して簡単なことではありませんでした。その後、京都市内にある京都盲人センターでマッサージの仕事をしてきました。
そして、今年の4月、私は大学院生として立命館大学社会学研究科に入学することができました。現在大学に通いながら、3年前に結婚した妻と2歳の娘と一緒に住んでいます。大学では、日本の障害者雇用促進に関する法律について研究しています。将来は、スーダンの障害者雇用状況の改善に向けて、努力していきたいと考えています。
障害者問題を考えるとき、先進国「日本」で蓄積された技術は、スーダン、ひいては発展途上国の障害者にとって極めて重要なものです。私は、修士課程を卒業した後、博士課程に進むことを考えています。そして、国に帰って、日本で学んだことを活かすための方法を追究したいと思います。
しかし、スーダンの障害者が抱えている問題はとても多く、個人で解決するには限界があるように思います。そこで現在、日本にいるスーダンの障害者「4人の視覚障害者」と日本人の友人たちと共に、スーダン障害者教育支援の会"Committee for Promoting and Assisting Education of the Disabled in Sudan(CAPEDS)"を設立するに至ったのです。簡単ではないと思いますが、スーダン障害者の発展の土台となるような組織をつくっていきたいと思います。
人生の出会いに
スーダン障害者教育支援の会と私
福地健太郎
みなさま、はじめまして。筑波大学で教育学を専攻しております、福地健太郎と申します。私は、ここ日本で生まれ、視覚障害を持ちながら、日本の社会で育ってきました。
そんな私が、今こうしてスーダンという遠い国、まさに想像すらつかないような国からの友人たちと共に自らの体験を共有し合うことに、一種の感慨を覚えずにはいられません。
それは、日本とスーダンという二つの国を隔てる距離を越えてめぐり合った偶然性によるものからかもしれません。この機会に、私がどのような道を歩み、スーダン障害者教育支援の会設立に関わるようになったのか、みなさまにお伝えしたいと思います。
私は、1984年大阪府に生まれました。2歳で両眼を失明し、それ以来視覚障害生活は20年になります。「近所の子供たちの中で育って欲しい」という両親の願いから、当時父の仕事で引っ越した鹿児島県の、地域の幼稚園に通いました。小学校に上がる時、私は県の教育委員会から盲学校に入学するよう通達を受けました。当時の私にはあまり理解できませんでしたが、遊び友達とも家族とも離れて、全学年合わせてもたった数名しか友人がいない盲学校に入ることは、とても寂しいことのように思われました。両親は、私を地域の学校に通わせるための運動を行い、地元の小学校の先生も協力してくださいました。しかし、教育委員会の理解を得ることはできず、結局母の実家がある大阪に戻ることになりました。
大阪では、市の教育委員会の理解を得て、地域の小学校に入学することができました。以後、高校を卒業するまで、私は大阪の通常の学校に通うことになります。しかし、大阪でも、通常の学校で視覚障害者が学ぶ環境が公的に整えられていたわけではありません。私の点字の教科書は、ボランティアの方々に点訳していただいていました。また、私に関わる先生方は、みな点字を覚えてくださいました。さらに、数学や体育など、独力で参加することが難しい授業に関しては、同じ教科の先生が補助としてついていてくださいました。このような幸運に恵まれたため、私はここまでくることができたのだと思います。本当に、先生方やボランティアの方々、そして両親に感謝しています。
また、たくさんの友人たちとの出会いも、私の人生を豊かにしてくれるものでした。一クラス40人の通常の学校で、多様な友人から多くの刺激を得ることができました。ある時は秘密基地作りに夢中になり、またある時はギターに打ち込みました。火遊びをして怒られたことも、今ではすばらしい思い出となっています。中学3年生で生徒会長を務めた時は、生徒会の仲間が資料を点字訳してくれました。
もちろん、すばらしいことばかりではありませんでした。眼の見えない私にとって、ドッジボールなどの球技は、なかなか参加することのできない遊びでした。いくら友人が隣で走ってくれても、音もなく突然飛んでくるボールを自力で避けることは不可能でした。そこで、当時の私は、周りが球技を始める前に何か面白い遊びを提案したり、球技になんとか参加する方法を考えていました。
高校時代、私はその後の人生に影響を与えることになる二つの体験をします。ひとつは、タイのスラム街で生まれ、日本のNGOの奨学金を得て学んだことで、タイ有数の難関校に進学した方との出会いでした。彼女は、母親の仕事を手伝い、家計を支える傍ら、そのNGOの運営する図書館で勉強したのです。将来は外交官として、国際政治の視点から自分と同じように教育を受けられない子供のために働きたい、という彼女の話を聞き、私は教育が人間にもたらす力の大きさをおぼろげながらに感じたのです。
二つ目の体験は、福祉先進国といわれるスウェーデンへの、高校生視察団としての訪問でした。同国では、当事者団体からの要望により、視覚障害児は通常の学校で十分な支援を得て教育を受けることになっていました。この事実は、当時の私にとって十分に興味深いものでしたが、さらに、当事者の声がそのような政策を推進したということが、私には衝撃的でした。
通常の学校で学んできた自分の経験と、この二つの体験から、私は障害者に教育がどれほどの力を与えるのかという関心を抱くようになりました。そして、教育、国際協力、障害という三つの分野を横断的に学ぶことのできる筑波大学への進学を決意しました。
大学時代、私は前述の三つのキーワードを切り口に、関心のあることには何でも貪欲に挑戦しました。その中でも、ブラインドサッカーとの出会いはかなり大きなものでした。
昔から苦手意識のあった球技ですが、ルールを少し変更することで、まったく新しいスポーツとして楽しめるようになることを知ったからです。また、このスポーツを通して、我が友人であり、後にスーダン障害者教育支援の会の設立を持ちかけられる、アブディン君との出会いもありました。2005年の春、私は、アブディン、ヒシャム、バシールの各氏が祖国への支援を計画していることを知りました。以前よりの関心から、私は二つ返事で協力を申し出ました。これは、スーダンの問題でありながら、視覚障害者の問題でもあり、幸運にも普通学校で学んできた自分とは無関係ではないように思えたからです。
点字板を送るという計画に、私は、筑波大学の学園祭で飲み物を販売して、その収益を充てることを提案しました。そして、私たちの店は成功を収め、300台の点字板を送ることができました。
同年夏、私は障害者と国際協力を学ぶため、米国およびタイでの海外研修へと旅立ちました。米国のジョージタウン大学で社会学の理論を学び、障害者運動のメッカである米国の自立生活センターで、ピアカウンセラーとして研修を受けました。タイでは、途上国の障害者の権利擁護活動を推進するDPIアジア太平洋の地域事務所で、資金調達や国際的な障害者運動の動向を学びました。研修の締めくくりとして、国連障害者の権利条約の準備委員会への傍聴団に加えていただき、国際的に障害者の権利が実現されていく現場に立ち会えたことは、権利に対する私の認識を大きく変えるものでした。つまり、権利は当然のものとして最初から存在するのではなく、歴史の中で作り出され、ゆえに、行使することで守っていく必要があるということです。同条約の24条(教育に関する権利)は、私にとって特別な意味を持つものでした。かつては認められなかった、近所の友人と共に学びたいという思いが、国際的に権利として認められたからです。もちろん、盲学校など専門教育の重要性を否定するつもりは毛頭ありませんし、障害児教育に専門性は欠かせないものだと思います。しかし、それぞれにあった教育を親や本人が選ぶ権利は認められるべきだと私は考えます。
帰国後、私はスーダンの障害者教育を支援する団体設立に加わりました。以前個人で行っていたような事業を拡大し、より多くの障害者を支援するためです。そして、私たちの出発を記念して、それぞれの思いをまとめることになったのです。
今こうして振り返ってみると、私の人生は、多くの出会いに溢れていたと思います。ここまで育ててくださった親や先生方、そしてボランティアの方々への感謝は、適切な言葉が見つからないほどです。そして、すばらしい友人たちと出会えたこと、昨年の留学のように、たくさんの学ぶ機会に恵まれたこと、本当に幸運だったと感じています。
私自身恵まれていたため、スーダンの障害者のために関わりたいという、ありふれた動機付けがないといえば嘘になりますが、これまでの道のりを振り返り、私はこの会との出会いは、偶然ではなく、むしろ必然ではないかと感じています。この会の仲間と共に、一人でも多くの子供たちが、近所の友人たちと教育を受けられる日がくるまで、歩み続けたいと思います。
今踏み出す
モハメド オマル アブディン
みなさん、こんにちは。私はスーダン出身の留学生で、アブディンと申します。現在、東京外国語大学大学院研究科平和構築紛争予防修士プログラムの1年生で、29歳の男性です。
私は、スーダンの首都・ハルツーム州に、5人兄弟の次男として生まれました。私を含む上の3人はみんな視覚障害を持っています。病名は網膜色素編成症という進行性の病気です。小さい頃は、昼間は見えていても、夜間や暗い場所ではほとんど見えない状態でした。そのため、私は地元の通常の小学校に入学しましたが、教室が暗かったため、黒板のすぐ近くまで行かないと先生が板書した文字を読むことができませんでした。また、自分でノートをとることはできても、自分が書いた文字を読むことはできませんでした。まっすぐ書いたつもりでも、後で見てみると、上と下の行が交差していたり、行の途中から下の行に移っていたりと、なんと芸術的な書き方をしているのだろうと自分でも思うほどでした。それでも、12歳までは、きれいに印刷された活字だけは遅いながらも読むことができました。特に歴史の教科書はとても印刷がきれいで読みやすかったので、歴史ばっかり勉強していたのを今でも覚えています。
しかし、中学校に入学する前にはその活字さえも読むことができなくなりました。それによって、私は耳学問たるものに完全に頼らざるをえなくなってしまいました。学校の友人や両親、遊びに来た親戚など、多くの人を巻き込み音読をしてもらいました。しかし生意気な自分は、人に音読してもらっている最中に夢の世界を行ったり来たりし、その上、記憶のあるところからまた読んでもらったりと、ひどいことをしていました。
そんな私ですが、耳学問をすることによって新たな能力を強化することができました。それは記憶力です。カセットテープに録音する方法もありますが、私はそれに馴染むことができず、ずっと対面朗読を中心に勉強していました。その場合、本を読んでくれる人の都合と自分の都合を合わせなければなりません。みなさん、テストの前の晩に勉強していて眠くなるとしますね。そこで何時間か床に入り、また早朝から最後の悪あがきをしてテストに臨めますよね。ぼくの場合は対面朗読に頼っているので、お互いの都合が合う時間以外に勉強することはできませんでした。そのため、最後の悪あがきなんて思いもよらないことでした(笑)。そんな訳で、私は記憶力と山をかける能力を身につけました。普段の授業で先生がいきいきと説明している箇所とか、ここを勉強しろという箇所をほとんど暗記して、限られた時間でその箇所を重点的に勉強しました。そのため成績は良かったのですが、やはりテストのためだけの勉強になっていました。少年向けの雑誌や童話などを読む時間や、それを読んでくれる人がいなくて、どんなに勉強したくてもそれが叶わないという状況が続き、私は周囲の友人たちが自由に読書できることを非常にうらやましく感じていました。
私の兄も同じ障害をもっており、彼は私にとってとてもよい相談相手でした。ある時私たち二人で本を読めない辛さについて語り合った時、兄がこういう言葉を口にしました。
「もしも、この世に本を読む機械がつくられたらおもしろいのにな。」
その話から10年、私は日本へ来て、コンピュータとスキャナー、そして音声読み上げソフトを目の当たりにし、これらのアイディアは昔兄が話したものではないかと感嘆しました。
高校卒業後、私はハルツーム大学の法学部に入学しました。当時はまだ視覚障害者が少なく、大学側の対応も大変なものでした。大学側は特別配慮ができないことを理由に入学手続きを遅らせ、結局私は大学側に何も頼まないという条件で入学を認められました。
大学に入学できたものの、私はこれまでの得意とした耳学問がもう限界にきていることを感じました。理由は、先生に指示された文献だけでなく、自ら問題意識を持ち、それについて調べ研究する大学という高等教育機関では、それまでのやり方ではとても追いつくことができなかったからです。
大学に入学してから半年が経った頃、私は日本の国際視覚障害者援護協会という団体の存在を知り、日本へ留学することを考え始めました。そして、日本では視覚障害者が点字やパソコンの音声読み上げソフトなどを利用して勉強することができるという話を聞いて、私は留学することを決心しました。日本へ行けばきっと道が開けると直感的に感じました。父の反対もありましたが、私はこのチャンスを逃せば一生後悔すると思い、留学を決意しました。
幸いにも、その年に私は日本へ来ることができました。しかし、そこから多くの困難が待ち構えていたのです。私は、スーダンで3ヶ月間日本語と点字を勉強していたので、それで上手くやれると思っていました。しかし、成田に着いてから色々な方々と話すと、会話は長くても1分で途切れてしまいました。その上、視覚障害者援護協会で学んでいた他国からの同期の留学生と比べても、私の日本語はうまいとは言えませんでした。そこで、私は一生懸命日本語や点字の勉強をし、盲学校の入学試験に備えました。しかし、日本へ来てまだ一ヶ月も経たないうちに、入学試験を受けなければなりませんでした。当然のことですが、結果は不合格でした。受け入れ先が決まらずに、時間ばかりが過ぎていきました。私はあせりを覚え、せっかく日本まで来たのに勉強できずに帰らなければいけない状況をどうしても受け入れられませんでした。しかし、捨てる神いれば、拾う神もいるって本当ですね。3月になって全ての入学試験が終了した頃に、福井県立盲学校が受け入れを承諾してくれました。そこで暖かい家族に受け入れられ、素晴らしい先生たちに丁寧に日本語や東洋医学を教えていただくことができました。福井県立盲学校で鍼灸マッサージの勉強をし、国家試験をパスして免許を取ることができました。
その後、視覚障害者に欠かせないコンピュータの勉強を2年ほど筑波技術短期大学で勉強し、東京外国語大学に入学しました。大学では多くの友人に囲まれ、そして、大学側の対応の素晴らしさに感動しつつ、なぜ自分の国であんなひどい対応を受けなければならなかったのかと憤りを覚えました。やはり、自分だけではなく、国にいる多くの障害者が少しでも勉強しやすい環境をつくっていけたらなぁと、私は考えるようになりました。しかし、頭の中で考えるものの、それを具体化する術を見つけることができず、私はどれほど無力であるかを痛感させられました。それでも、何かできないかと、スーダンから同じプログラムで日本に来ていた二人の留学生と何度も話し合いを重ね、応急措置的に点字板などを送ることを決めました。そんな中、私に非常に力を与えてくれたのは、2年前筑波大学の私の親友からかけられた「この活動を手伝うよ」という言葉でした。私たちは、筑波大学の祭りで店を出し、その売り上げを点字板の購入金に充て、これまでに330の点字板を送ることができました。
しかし、もっと私たちにできることがあるはずだと、私は思っています。私たちが日本で学ぶ意味は、やはり日本の障害者教育の経験をよく学び、そして多くの日本の皆様にスーダンの障害者が置かれている状況を伝え、教育支援に賛同いただけるように努力すること。これは僕たちに課された使命だと思います。そのために、この春、これまでの迷いを振りはらって、これまでの散発的活動を組織化し、スーダン障害者教育支援の会という団体を立ち上げることにしたのです。
日本に来て私は多くのことを学ぶことができました。勉強だけではなく、一人で生活する、一人で町を歩く、大好きなサッカーをするといった皆様にとって当たり前のようなことが、私にとってはこれまでの人生で最も感動的な出来事なのです。小さい時サッカーが得意で、学校から帰るとすぐサッカーボールを持ち出し近所の子供たちと日が暮れるまで遊んでいたのに、目の病気が進行し、大好きなサッカーができなくなり、自転車に乗って近所の友達と遠くへ行くことができなくなりました。子供の自分にとって、それは非常に耐え難いものでした。しかし、私は日本でまた文字が読めるようになり、形は違っても、ブラインドサッカーというスポーツに出会って10年ぶりにサッカーをし、一人で好きな時間に町をぶらぶらし、好きな時間に点字に直された本や、インターネットで様々な情報にアクセスすることができるようになりました。今私は本当に幸せです。だからこそ、この幸せ、この自由な気持ちを一人でも多くのスーダンの障害者に感じていただければと思うのです。そのために、私は時間と労力を惜しむことなく、率先してこの使命を受けることにしました。しかし、私一人だけでは何もできません。今までこの活動に賛同してくれた多くの方々に感謝し、そして、より多くの方々にもこの活動を知っていただきたいと思っています。そして、みなさまと力を合わせ、目標に向かって一歩ずつ進んでいきたいのです。その不確かな一歩を踏み出したばかりの私たちですが、皆様どうぞよろしくお願いします。
出版物>>CAPEDS〜その門出に


